一応一区切りとして書いておこう。
やはり20年も経つと記憶も風化していっているのは実感。
直接自分が大きな被害を被っていないからなんだろう。
地震が起こった当時はまだ明石の実家にいた。
どーんと大きな音で目が覚めた。しかし体はまだ動かない。
直後に大きな揺れが来た。 揺れながらも横のタンスの上にあるものが直接落ちてこないよう寝返りを打って部屋の中心に体が行くようにしたのを覚えている。
揺れながらも冷静にそんなことを考えていた。幸い頭の上に物が落ちてこなかった。
揺れが収まった後、まず自室を確認。勝手にテレビの電源が入っていたのと本棚から本とCDがいくらか落ちていた程度。
次にすぐに玄関が開くのを確認。親に声をかけるが怪我は特に無い様子。
家の中では皿が数枚落ちたのと、オーブンレンジを載せたぐらぐらのカラーボックスが倒れもせずキッチンの真ん中まで移動していたのが不思議だった。
テレビでは地震のことを報道していたが兵庫県の震度だけが表示されてなかった記憶がある。
当時弟は自分の職場から近い、今私が住んでいる所にいたのだが、すぐに電話を入れる。巨大な水槽のある部屋で寝ていたのだが、揺れで水が溢れ、それをかぶって水浸しになったいた様子。それ以外は特に以上はなかった様子。
しばらくすると電話が不通になった。
ちなみに飼っていたのはニホンナマズ。あとから「お前は地震を予知できなかったのか」というのは笑い話。弟によると前日でも特に変なこともなかった様子。
後から母親から聞いた、ご近所のことでわかったことが実家は団地なのだが、6棟あるうち、我が家のある棟ともう一棟は南北に沿って真っすぐ立っていて、その二棟は家の中は大きな被害は少なかったが、他は北東‐南西に沿って建っている棟、東西にそって建っている棟はタンスが倒れ家の中はグチャグチャだったそうだ。
同じ団地でも棟によって被害が違っていた様子。地震の不思議さを感じた一つだった。
当時そんな呼び名が浸透していなかったいわゆるライフラインは、一時的に停電、断水したが特に問題なかった。
とりあえず日中は自分と母親で、食料だけ買い出し。母親は大久保方面、自分は魚住方面に向かった。
父親は当時今住んでいるところを仕事道具の倉庫にしていたので弟の様子確認を兼ねて来ていた。
自分は道すがら高校時代の部活の後輩の女の子に出会う。一緒に買物に回った。
数件回るがろくなものはなし。店は開いていたが同様の人が多く来ていて、パンなどはほとんどなくなっていた。その子の家は水が出なかったらしく、ミネラルウォーターを探していたが手に入れることはできなかった。
夕刻近くに自宅にそれぞれ戻っていたが、少しずつの食べ物は確保。
倉庫の方も特に問題なし。弟は父親が到着した時は何をすることもなく毛布をかぶって玄関先に座っていたそうだ。
その日弟は実家に戻ることはなく、とりあえず倉庫番を兼ねてそこにいることにしたそうだ。
戻ってきた後、親父がとりあえず仕事の取引先数件の様子を見に行くとのこと。
一番近所のガソリンスタンドに行って、在庫があるだけポリタンクを購入。水を汲んで軽トラに積み込み、一緒に神戸の西区、舞子の取引先へまわった。
車は大渋滞。しかし仕事柄、裏道に詳しかったおかげで取引先の家には問題なく到着。
しかし震源地から近いにもかかわらず被害が少ないながらも、倒壊、半壊の家もところどころ見受けられる。途中新幹線の高架が壊れもせずそのまま下に落ちてる状況に目を白黒させる。
回った取引先では幸い大きな被害があるところはなかった。しかし断水してるところが多く、自分たちの持っていったポリタンクの水は助かっていた様子。
そして回っているうちに最早仕事の話も舞い込んでくる。
被害の大きくない我が家は地震の翌日から修繕してくれ等々、大工、土建屋さんなどの取引先には電話が入っていた様子。
左官屋であるうちは震災の翌日からずっと仕事の日々がつづく。
最初のうちの仕事は明石から垂水の間でとりあえず壁や瓦が落ちたところを片付けてブルーシートを掛ける仕事がほとんど。
瓦礫を捨てるのに2トンダンプで列に並ぶだけで一日が終わる日もあったりした。
それが落ち着いてくると本業の壁の修繕以外にも瓦の葺き替えや倒れた門扉、塀の修理など。それ以外の仕事が多かったこと。ほんとしばらくは仕事は無くならなかった。
須磨、長田あたりを仕事で回ってる時は完全に倒壊したアパートの横や被災して近隣の公園でテント生活してる人達の横で仕事をしたり、こんなことをしていていいのかと、なんとも言えない気持ちでいた。
そんな中、イライラしながらあくせく仕事をしてるのにいろいろ仕事の内容に色々口を出してくる人もいる。それについて親父は怒鳴りつける。
不思議なテンプレートがあって、
依頼者、仕事に口を出す
↓
親父「こっちは身一つで順番に仕事片付けるんや、それぐらい待てんのか!」
↓
依頼者「うちらは震災の被害者なんだぞ」
↓
親父「家無くなってテントや体育館で生活してる人らがおるやろが、ちょっと修繕したら済むあんたらは被害者のうちに入らんわ!」
↓
依頼者、それ以降何も言わない。
というやりとりが5,6回見てきた。
震災の被害者というのは確かにそうかもしれない。
不思議とすぐに修繕に掛かれる人には独特のエゴがあるのは何故なのかと当時思ったもの。
以降、長田、須磨方面に車で行きやすくなって、その周辺で仕事するようになって思ったのは地震の不思議さ。
とんでもない状況も沢山見てきた。まるでなんともない(ように見える)地区があると思えば、道一本挟んでほとんど倒壊しているような状況の地区があったり、ほとんどの家が倒壊してるのに中に支柱もなく壁だけで家を支えているだけのような商店だけ倒壊せず残っていたり。
しばらく仕事は震災関連の仕事が続いたが、いつ落ち着いたのかよくわからない。
とりあえず減ったなと思ったのは明石海峡大橋のケーソンの施工の手伝いに行った時だったと思う。
仕事に関する詳細やその周りの見てきたことは書き出すとキリがない。あの土臭い埃っぽさが頭に残っている。テレビでやっている物を見るのと直接体感するのとではやはり違う。
酷い場面と人それぞれの起こった出来事もあるのも判る。ただそれだけじゃない人のたくましさも仕事中に感じた。
20年経って自分にもいろんなことがあったが、20年うちのいくらかを、直接の被害者とも言えないが間近で見てきて当時思ってたことを、この機につらつらと。
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