2015年1月17日土曜日

震災20周年

一応一区切りとして書いておこう。

やはり20年も経つと記憶も風化していっているのは実感。
直接自分が大きな被害を被っていないからなんだろう。

地震が起こった当時はまだ明石の実家にいた。
どーんと大きな音で目が覚めた。しかし体はまだ動かない。
直後に大きな揺れが来た。 揺れながらも横のタンスの上にあるものが直接落ちてこないよう寝返りを打って部屋の中心に体が行くようにしたのを覚えている。
揺れながらも冷静にそんなことを考えていた。幸い頭の上に物が落ちてこなかった。

揺れが収まった後、まず自室を確認。勝手にテレビの電源が入っていたのと本棚から本とCDがいくらか落ちていた程度。
次にすぐに玄関が開くのを確認。親に声をかけるが怪我は特に無い様子。
家の中では皿が数枚落ちたのと、オーブンレンジを載せたぐらぐらのカラーボックスが倒れもせずキッチンの真ん中まで移動していたのが不思議だった。

テレビでは地震のことを報道していたが兵庫県の震度だけが表示されてなかった記憶がある。

当時弟は自分の職場から近い、今私が住んでいる所にいたのだが、すぐに電話を入れる。巨大な水槽のある部屋で寝ていたのだが、揺れで水が溢れ、それをかぶって水浸しになったいた様子。それ以外は特に以上はなかった様子。
しばらくすると電話が不通になった。
ちなみに飼っていたのはニホンナマズ。あとから「お前は地震を予知できなかったのか」というのは笑い話。弟によると前日でも特に変なこともなかった様子。

後から母親から聞いた、ご近所のことでわかったことが実家は団地なのだが、6棟あるうち、我が家のある棟ともう一棟は南北に沿って真っすぐ立っていて、その二棟は家の中は大きな被害は少なかったが、他は北東‐南西に沿って建っている棟、東西にそって建っている棟はタンスが倒れ家の中はグチャグチャだったそうだ。
同じ団地でも棟によって被害が違っていた様子。地震の不思議さを感じた一つだった。

当時そんな呼び名が浸透していなかったいわゆるライフラインは、一時的に停電、断水したが特に問題なかった。
とりあえず日中は自分と母親で、食料だけ買い出し。母親は大久保方面、自分は魚住方面に向かった。
父親は当時今住んでいるところを仕事道具の倉庫にしていたので弟の様子確認を兼ねて来ていた。

自分は道すがら高校時代の部活の後輩の女の子に出会う。一緒に買物に回った。
数件回るがろくなものはなし。店は開いていたが同様の人が多く来ていて、パンなどはほとんどなくなっていた。その子の家は水が出なかったらしく、ミネラルウォーターを探していたが手に入れることはできなかった。


夕刻近くに自宅にそれぞれ戻っていたが、少しずつの食べ物は確保。
倉庫の方も特に問題なし。弟は父親が到着した時は何をすることもなく毛布をかぶって玄関先に座っていたそうだ。
その日弟は実家に戻ることはなく、とりあえず倉庫番を兼ねてそこにいることにしたそうだ。

戻ってきた後、親父がとりあえず仕事の取引先数件の様子を見に行くとのこと。
一番近所のガソリンスタンドに行って、在庫があるだけポリタンクを購入。水を汲んで軽トラに積み込み、一緒に神戸の西区、舞子の取引先へまわった。

車は大渋滞。しかし仕事柄、裏道に詳しかったおかげで取引先の家には問題なく到着。
しかし震源地から近いにもかかわらず被害が少ないながらも、倒壊、半壊の家もところどころ見受けられる。途中新幹線の高架が壊れもせずそのまま下に落ちてる状況に目を白黒させる。
回った取引先では幸い大きな被害があるところはなかった。しかし断水してるところが多く、自分たちの持っていったポリタンクの水は助かっていた様子。

そして回っているうちに最早仕事の話も舞い込んでくる。
被害の大きくない我が家は地震の翌日から修繕してくれ等々、大工、土建屋さんなどの取引先には電話が入っていた様子。
左官屋であるうちは震災の翌日からずっと仕事の日々がつづく。

最初のうちの仕事は明石から垂水の間でとりあえず壁や瓦が落ちたところを片付けてブルーシートを掛ける仕事がほとんど。
瓦礫を捨てるのに2トンダンプで列に並ぶだけで一日が終わる日もあったりした。

それが落ち着いてくると本業の壁の修繕以外にも瓦の葺き替えや倒れた門扉、塀の修理など。それ以外の仕事が多かったこと。ほんとしばらくは仕事は無くならなかった。

須磨、長田あたりを仕事で回ってる時は完全に倒壊したアパートの横や被災して近隣の公園でテント生活してる人達の横で仕事をしたり、こんなことをしていていいのかと、なんとも言えない気持ちでいた。

そんな中、イライラしながらあくせく仕事をしてるのにいろいろ仕事の内容に色々口を出してくる人もいる。それについて親父は怒鳴りつける。

不思議なテンプレートがあって、

依頼者、仕事に口を出す
 ↓
親父「こっちは身一つで順番に仕事片付けるんや、それぐらい待てんのか!」
 ↓
依頼者「うちらは震災の被害者なんだぞ」
 ↓
親父「家無くなってテントや体育館で生活してる人らがおるやろが、ちょっと修繕したら済むあんたらは被害者のうちに入らんわ!」
 ↓
依頼者、それ以降何も言わない。

というやりとりが5,6回見てきた。
震災の被害者というのは確かにそうかもしれない。
不思議とすぐに修繕に掛かれる人には独特のエゴがあるのは何故なのかと当時思ったもの。

以降、長田、須磨方面に車で行きやすくなって、その周辺で仕事するようになって思ったのは地震の不思議さ。
とんでもない状況も沢山見てきた。まるでなんともない(ように見える)地区があると思えば、道一本挟んでほとんど倒壊しているような状況の地区があったり、ほとんどの家が倒壊してるのに中に支柱もなく壁だけで家を支えているだけのような商店だけ倒壊せず残っていたり。

しばらく仕事は震災関連の仕事が続いたが、いつ落ち着いたのかよくわからない。
とりあえず減ったなと思ったのは明石海峡大橋のケーソンの施工の手伝いに行った時だったと思う。

仕事に関する詳細やその周りの見てきたことは書き出すとキリがない。あの土臭い埃っぽさが頭に残っている。テレビでやっている物を見るのと直接体感するのとではやはり違う。
酷い場面と人それぞれの起こった出来事もあるのも判る。ただそれだけじゃない人のたくましさも仕事中に感じた。

20年経って自分にもいろんなことがあったが、20年うちのいくらかを、直接の被害者とも言えないが間近で見てきて当時思ってたことを、この機につらつらと。

2014年11月12日水曜日

最近の子供はナイフで鉛筆も削れない、からの…


  元はカラオケオフでよくお世話になったにゃんこ☆さんのリツイートから。


   猟師で本も書かれている千松さんのツイートです。アウトドア系や狩猟系の本などは自分の生活では読むことはないけど、ナイフの話題は多分必然的に出てくるでしょうね。

 たしかに「最近の子どもはナイフで鉛筆も削れない」というフレーズは子供の頃からいろんな媒体で聞かれた言葉。それが40年前の本で既に言われていたとのこと。


 この辺りからはにゃんこ☆さんとのやりとりを多少詳細に。


 これまた自分が子供の頃からよく言われて聞いていたフレーズで、

「子供に刃物を持たすな」

 注意されたことがある人は少なからずいると思います。このフレーズが出来た「きっかけ」について何かで読んだ記憶があったので改めて調べてみました。

 1960年に浅沼稲次郎という政治家が暗殺されました。テレビでもショッキングな古いニュース映像としてよく取り上げられたので、詳しく知らずとも映像をテレビで見た人も多いと思います。ネットでも難なく動画が見つかります。
 この事件についてwikipediaより引用。

 浅沼稲次郎暗殺事件
犯人・※※は少年だったこともあり、この事件をきっかけに「子供に刃物を持たせない運動」が始まった。それにより、それまでは鉛筆削りや工作に使用されていた肥後守を始めとする刃物が子供から取り上げられ、以後続く刃物規制の始まりの一つとなった。
というように、この「未成年が起こした事件」をきっかけに「子供に刃物を持たすな」と銃刀法の改正にまでつながる、上記のフレーズのきっかけの事件です。

 そして1960年のこの事件から十数年すると、先の千松さんのツイートで読まれた本の1970年台。
ここで私とにゃんこ☆さんとのやりとりから、あることが端的に見て取れます。
そう、「最近の子どもはナイフで鉛筆も削れない」、そして「子供に刃物を持たすな」という2つの点が線で結ばれた瞬間でした。自分も思わず内心「おおー」と感嘆。

 にゃんこ☆さんのそのあとのリプライで、
あー、そういう点が繋がる瞬間ってのは、妙な感動がありますよね(^^)
何か目の前がひらけたような感じでw
と頂いて、まさにその通りで(^^)
そうなると嬉しくて人に喋りたくなるもの。

 とりあえず手近なところで自分の母親にこの話をしてみた。
すると意外なレスポンスがあって、簡単にまとめると、
 小学生の頃はみんな筆入れに鉛筆削り用の片刃の折りたたみのカミソリを持っていて、これが高学年の時に急に禁止になり、見つかったら先生に没収されていた。

 とのこと。母親は1949年生まれ。となると1960年は小学校5,6年の計算でまさに上の引用通り。ある意味当事者でした(笑)。母親もあの事件がきっかけだったんだと、この話で判った様子。

 自分らが小学生の頃はギミックのある筆入れ、匂いつき消しゴムやロケットペンシルがクラスで流行ったりしていたが、母親の世代はその鉛筆削り用のカミソリが自分たちのそれに当たるようで、プラスチックのカラフルなケースのものがあったとか。 上記で出る肥後守とはまた別物とのこと。

 この点と点が繋がっていく感じが楽しくて久々に記事にしてみようかと思った次第です。
 
 なんでもとりあえず話してみるものです。
なにが出てくるかわからないから面白い!…けど基本人見知りです。

去年は一本も投稿してないな。ツイッターにとって変わってるんでねー。

2012年8月8日水曜日

Androidカーナビを使ってみる。

以前からカーナビは使っていたのでその便利さは無論承知。

そして郊外に住んでると車は必須。
また自分だけじゃなく家族も車を持っている。

で、その便利なカーナビを、もし可能ならそれぞれの車に取り付けたい。
しかしそんな高価なもの一台一台に付けてられない。
一台をいちいち付け替えるのもかなり面倒。

そして自分の車は使用頻度も高いからカーナビもそれなりに使いでもあるが、それほど使用頻度の高くない車にカーナビを付けるのはちょっともったいない。

そこで。
スマホにはカーナビがあるじゃないか。
…と前から判ってはいた。
 
でもお金がかかるしなぁ。
高機能かもしれないけどあんまり使わないものに毎月315円かー。

と躊躇し続けて1年。

ある日、プリインストールのアプリが並んでる画面を見ていると、

「ナビ」

と書いてある物を発見。
なんとAndroidは標準でナビアプリがついていたのだ。
これまでも何度か見ていたはずなのに目に入ってなかった(笑)

これで上手くいくなら315円を毎月払わなくて済む。
ナビとして、どの程度のものかを確認してみる。
起動すると最初にGPSをオンにしろと言ってくる。
カーナビとして使う以上必須なのでオン。

色々見てる見るがカーナビとして必要十分な機能は付いている。
ほかのカーナビにないAndroidっぽい機能といえば…

・目的地の音声入力が可。
・車以外にも徒歩の経路を見ることができる。
・交通情報もワンタッチでOK。
・Googleで登録していた情報を見ることが可能。
 (ただしナビ中にマップ上に出せない?)
・Googleらしく地図じゃなく航空写真上をナビ可能。
・もちろん地図は勝手に最新になってることだろう。

てなところ。

これが機能的に十分使えるなら、あちこち載せ替えが気軽にできる。
そのためにスマホ用のホルダーを探す。

あちこち付け替えが容易で、洗濯ばさみのように挟むだけと、スマホの取り回しがよさそうなものを探し、楽天で購入

取り付け場所は目線を大きく移さなくていいようにAピラーの裏側。
この車載ホルダーは吸盤が極端な局面でなければ大概吸い付くので便利。

とりあえず一日車で動きまわる日を見計らってテスト実施。

ちなみに使ってる機種はMEDIAS WP N-06C。

まずは通勤の往路でテスト。
神戸-大阪間を高速で走るだけ。

目的地を設定し、案内開始。
地図の表示はパナソニックのナビで言う、

「フロントワイド」
 (自車位置は上向きで固定し前方にスクロール、地図が自車位置を中心に回転)

ではなく、

「ノースアップ」
(地図が北を上に固定しスクロール。自車位置が中心で進行方向に回転)

で設定。フロントワイドはなぜか余計混乱しちゃうので(^_^;


とりあえず80キロ巡航で様子見。

・変なコースを案内したりしない。
・ナビが通信が原因で遅延したりすることはなし。
・位置がずれたりなども見てる限りではほぼなし。
・トンネル内でGPS拾わなくても大体経路どおりに進んでいるよう?
・地図データはgoogleなので問題は無いだろう、たぶん。
・到着地点のストリートビューが表示される!

ここまでは問題なし。 なかなか大したもの。
画面が小さいのはスマホなので已む無し。

で、道すがら気づいていたのがバッテリー消費。
みるみる減っていく。到着時は半分になっていた。

普段はバッテリーを保たせるのにエコモードにしてWi-Fi、Bluetooth、GPSはオフ、画面は暗め、尚且つ常駐アプリを自動で切るアプリまで入れて辛うじて1日持つ感じ。

それをGPSオンに画面は車内で見えるよう明るめ、ナビアプリ動きっぱなしの1時間半ほどでバッテリー半分。

減ることは想定しているがこれはあまりにもorz

とりあえずテストを続行する。

とりあえず午後からのテストに備え、充電をする。
少ししてから様子を見ると、

「複数機能の連続使用などにより端末温度が上昇したため、充電を停止しました」

なんてメッセージが出ている。
なんだそれ。初めて見た。

確かにいろいろいじってるとカメラのレンズの下あたりがかなり熱くなることがある。
上記の通り、いろいろオンにしている&アプリの連続使用が原因だろうか。
防水があるので水掛けながら充電してやろうかとあほなことも考える。



とりあえず7割ほど充電できたので午後から大阪の市街地を通ってみて気づいたこと。

・操作のレスポンスがよいのが最高。

・ルートももう少し
・直進の際、途中にある分岐が案内されなかった(一部かも)。
・縮尺を変えたまま固定できない?(設定不明)
・ナビ案内用の画面とGoogleマップは別。
・たまにビル陰でGPSが拾えなくなる(普通のナビでもあるし)

広い画面で解決できることも。でかすぎて視認に困るか(笑)


そして帰路のナビゲーション。

敢えてパナのナビと並行してナビゲーションさせてみる。
そして自宅を指定しつつ、わざとナビされてないコースを通ってみたりする。

それと。
あれだけの勢いでバッテリーが減るので、シガーソケットから充電させつつナビさせてみることに。

とりあえずかなりの大回りでルートをわざと外して帰ってみる。
何度かのリルートで元のコースに戻ろうとするのをあきらめさせ、(笑)
自分の想定するコースをナビゲーションしてもらうようになるまで走ってみた。

ナビが元のコースに諦めが付いた頃、帰宅までの予想時間を見てみると20分ほど違う。
さっきまでは大きな誤差がなかったのになぜだろうと、暫く走ってみると答えがわかった。

パナのナビとAndroidのナビアプリで案内する新しい帰路が違っていたのだ。

ズバリ位置関係を書くと、西宮から六甲経由で神戸市西区に帰るつもりだった。
パナのナビはその想定していたコースを通ろうとしたが、Androidのナビは更に北上し有馬まで案内していたのだった。

これについてはその理由が判らなかった。
何の優位性があって遠回りを案内したのか。
またいろいろと検証する必要があるな、と思いつつ帰路についたのだが。

突然スマホの画面が真っ暗になった。
え、と思ってボタンを押すとバッテリー残量なしのマーク。
シガーソケットから充電しつつ帰っていたはずなのに。
充電速度より消費量のほうが多かったのか?
とにかく画面を見ることができるまでアクセルを踏みつつ充電を待った。

30分ほど運転したのち少し充電できたので信号待ちでメッセージ画面を確認。


「複数機能の連続使用などにより端末温度が上昇したため、充電を停止しました」



ええー。

上に書いたような理由で充電が停止することがあるのはわかった。
今回はそこに充電そのもので熱を持って、充電停止に追い打ちを欠けたと予測。
車の中で充電はしょっちゅうしてるのにこんなことは初めて。


結論として。以下のいずれかが選択肢となることでしょう。

・フル充電で往復できる範囲だけナビを使え。
・容量の多いバッテリーを使え。
・発熱の少ない、省電力のCPUの乗ったスマホを買え。


複数の車でナビするのはまだ先になりそうです。

2011年7月13日水曜日

新しい車

あれこれといろんなことが起こって喜んだり悲しんだり。
書けることも書けないことも書かないことも。

書いてることだけで人の中身全部を推し量るのなんて無理なことなんだなぁ、とだけ。


で、昨年末の親父が退院してから1ヶ月ぐらい経った頃、私が帰宅すると突然「昼頃から左半身が動かない」と言い出す。
本人と母親は以前に脊椎を手術したからその影響かとおもっていたらしい。
びっくりしたオレは「脳梗塞の可能性があるから今すぐにでも病院に行こう」というと「行かんわ!」と怒鳴られた。
それから何度言っても今すぐ行くつもりはない、まだ多少動くし数日後に通院があるからその時でいいと考えていたようだ。
そして数日後病院に行ったら別の科の医師から「すぐに脳神経外科へ」と言われ、診てもらうと案の定の診断結果、結局「処置するにはもう遅い」、即ち手遅れ、と。
脳梗塞は症状が出たときは、即座に処置することで回復の可能性がずいぶん違うのだ。
早く医者に行けと言ったら親父に怒鳴られ、そして医者からなぜもっと早く連れてこないと怒られる。
オレ、非常に不条理なり(´・ω・`)

それからまた3ヶ月ほどリハビリのために入院し、そして今に至る。

左半身に麻痺が残りながらも、どうにか日常生活が送れる程度。現在は要介護1。
多少はあの時言う事を聞かなかったことを反省してるらしい。「これが右半身だったら聞き手も使えないし、言語の方も障害が出てたかも」「脳梗塞は再発の可能性が高い」と脅しておいた。

そしてそんな体の状態になってしまったが、これからも病院に通ったり、出かけなければならない事はもあり、それを母親が車で連れて行かなければならない。

移動のために使っていた母親の車については以前から「小ベンツ、Hマーク付き、660cc」なんて「本人がw」言っていたが、 いわゆるホンダのトゥデイ。
小さくて乗りやすく、母親のお気に入りの車。「小ベンツ」というのが愛情の現れ(笑)

トゥデイはいわゆる「旧規格」のもので、今時の軽自動車の横に並んでもずいぶん小さい。
平成8年式だったかを中古で購入。あちこちぶつけまくってボディは傷だらけ、北は北海道、南は九州までと15万キロも走っていたが、馴染みのショップできちんとメンテナンスしていたこともありエンジンはすこぶる快調でまだまだ乗ることができる、とショップからのお墨付きの状態だった。

しかし、そんな体の状態の親父がトゥデイの助手席から乗り降りするにはあまりにも車高が低く、窮屈。乗り降りを手伝う母親の負担も結構なもの。
母親はトゥデイに愛着があったので、実はまだまだ乗り続けていたかったが、親父のそんな状態を考え、車を買い換えようということになった。
そして母親も年齢から今後車を買い換えることもないだろうから新車を買って長く乗ろうと決断。

そして車の選定が始まる。
近隣のディーラーや中古屋に親父を連れていき、実際に助手席に乗り降りしやすいものをあれこれ試してみた。
最初はダイハツのピラーレスのタントにしようかと言っていたが、若干高いらしく足の上げ下げが大変なようだった。そこからいろいろ選んだ結果、同じくダイハツのミラココアに決定。グレードはプラスX。
その他母親の身長から運転席にシートリフターがついてること、よって前後の見通しが良くなること、好みの色があること、比較的可愛い、ということからこの車種に選んだそうな。

決めた後もショップが乗り心地を見るために試乗車を持ってきてくれたり、ディーラーとの間で色々と調整のために世話をしてくれた。
このショップは店長が、以前の店をやめて独立してから我が家の車全てをお任せしている。いつも車に関してあらゆることを面倒を見てくれているので、たいへん助かる。
腕も良くて、ディラーなんかで見てもらうより安いので顧客がとても多いが、食べ物屋に例えたら「並んでも食べたいお店」。
何よりも「できるだけオーナーには長く乗ってもらいたい」という考え方があり、車に愛情があるというのがわかるので信用が置ける。
 
そしてそのショップを通じて注文したのは 6月初め。
しかし、東北の震災後の混乱で自動車メーカーが工場を停止したりしていた最中だったので、納期は暫く先になりそうとのことだった。
しかし「枠ができた」とのことで急遽納車が決定、それが7月6日のことでした。

到着してから、母親はわりと御機嫌にご近所に乗って回っている。
車体が大きくなってもそれほど大きさを感じない、 位置感覚が判りやすいので駐車がすごくしやすいとか。
私も乗ってみたが今時の軽自動車は静か大きくなってトゥデイに比べると車重がある感じは判るがそれでもよく走る。
でもまだ慣らし期間なのでそれほど踏んでない、そしてやっぱりターボが付いてるほうが好み(笑)
でも街乗りにゃ十分いい車と言えます。

ちなみにトゥデイの方は書いたとおりガワがボロボロなことを除けは絶好調なのでショップの方で引き取られ、足車や代車に使われるそうです。
身長180cm以上ある店長にゃ狭い気もするが(笑)

あとは電柱の下に停めてるので鳥の糞が悩みのタネ。母親が「新車なのにっ」って。

…特にオチはないな。こんだけ書く暇があったら勉強に時間割けよとは思う(´・ω・`)

2011年4月1日金曜日

とりあえず復活ということで。

気分転換の意味も込めて、新年度に合わせてブログ再開。
思いの外、自分のブログを待っててくれるひとが多いのに大いに感謝しております。
応援してくれた人もありがとう、泣きそうです(笑)…いや(泣)


とりあえずBloggerなら無料にもかかわらず独自ドメインが使えるので少しテストしてここにとりあえず落ち着きました。
んで、ドメインが変わりました。以前誰かが持ってたのを期限が切れた時に頂きました。以前のドメインも残してますがしばらくしたら片付けるかも。

一市井の日記ブロガーが弄るにはMovableTypeは仰々しいものになったので身の丈ぐらいのサービスにしようと思ったわけです。


方向性としては、まとまった内容をブログに、独り言はツイッターと以前のブログで宣言したとおりです。内容も決めてません。そのほうがいいかも。前の続きは書くかどうかはわかりません。
精神力が続く限り出来る限り長文にしたいとは思ってます。

ちなみにツイッターのプロフィールはネタですが、時事暴論家としてこれから精進していきます(笑)

ブログはともかくみんなツイッターしましょう、ツイッター。

2010年12月27日月曜日

新しいブログ作ってみました。

MovableTypeのインストールに手間を掛けるのが大変なので、無料サービスを利用してブログを開始してみる。
昔から定評のある「Blogger」で独自ドメイン運用がらしいのでちょっと研究。

うまくいくといいな。